三淵嘉子(みぶち よしこ)さんは日本で最初に女性弁護士となった人物で、その後、判事や裁判所所長も務めています。
2024年4月から放送のNHK朝ドラ「虎に翼」で、主人公のモデルとしても有名です。
男性優位の法律がまだ残る昭和初期は、女性が家庭に入ることが多い時代でした。
男女の格差が存在する社会に疑問を感じていた三淵嘉子さんは、法曹の道へと突き進みます。
そんな三淵嘉子さんはどんな家族に囲まれて育ったのでしょうか。
三淵嘉子さんの子孫がいるかどうかも気になるところです。
今回は、三淵嘉子さんの家族や子孫、またどんな過酷な困難に直面したのかもじっくりと深掘りしていきます。
三淵嘉子の家族について

三淵嘉子さんには、両親と4人の弟がいました。
父親:武藤貞雄(むとう さだお)さん
母親:武藤ノブさん
長弟:武藤一郎(むとう いちろう)さん
次弟:武藤輝彦(むとう てるひこ)さん
三弟:武藤晟造(むとう せいぞう)さん
末弟:武藤泰夫(むとう やすお)さん
三淵嘉子の両親
三淵嘉子さんの父親は、武藤家9代目当主の武藤貞雄さんです。
香川県丸亀市出身の武藤貞雄さんは、東京帝国大学(現在の東京大学)法科大学政治科を卒業しています。
大学卒業後、武藤貞雄さんは台湾銀行に就職。
シンガポール・ニューヨークと海外勤務を経験しました。
武藤貞雄さんは、その後も数々の会社の社長を歴任したエリートです。
武藤貞雄さんは、「男性と女性の人生は平等であるべき」という非常に現代的な考えを持っていました。
幼いころの三淵嘉子さんにも、将来は自立するように言い聞かせていたそうです。
「ただ普通のお嫁さんになる女にはなるな。男と同じように政治でも、経済でも理解できるようになれ。それには何か専門の仕事をもつ為の勉強をしなさい。医者になるか弁護士はどうか」
引用元:明治大学史資料センター
そんな武藤貞雄さんは、法曹界を目指した三淵嘉子さんの一番の良き理解者でした。
母親の武藤ノブさんも香川県丸亀市出身です。
幼い頃に父親をなくし、子供のいない伯父の武藤直言さん夫妻の養女になりました。
三淵嘉子さんが弁護士を目指し、進学を決めたときのこと。
武藤ノブさんは、「法律などを勉強しては嫁の貰い手がなくなる」と泣きながら猛反対したそうです。
長弟の武藤一郎
武藤家の長男の武藤一郎さんは、三淵嘉子さんの1番目の弟です。
武藤一郎さんは、しっかりもので兄弟のまとめ役だったといいます。
横浜商業高校を卒業した武藤一郎さんは、日立製作所水戸工場に就職。
戦争が始まる前に結婚しました。
その後、戦争が始まり激化したころに、妻の妊娠がわかります。
妻の妊娠を喜んだのもつかの間、武藤一郎さんは沖縄戦の増援部隊として召集されました。
1944年6月に武藤一郎さんが乗る輸送船は沖縄に向けて出発後、米軍の魚雷により沈没。
武藤一郎さんは娘の顔を見ることなく戦死します。
まだ、29歳という若さでした。
遺体が戻らないまま執り行われた葬儀では、骨壺に遺品を収めたそうです。
戦争終結から50年後、沖縄戦の戦没者24万名の氏名を刻んだ慰霊碑「平和の礎(いしじ)」が沖縄平和記念公園内に建てられ、武藤一郎さんの名前も刻まれました。
次弟の武藤輝彦
三淵嘉子さんの2番目の弟、武藤輝彦さんは、東京帝国大学文学部美学科卒業後、陸軍に従軍しました。
終戦後、職を転々とした武藤輝彦さん。
最終的に、煙火製造業に就き、花火師として活躍しました。
1961年に自ら設立に尽力した日本煙火芸術協会事務局長に就任。
翌年には、社団法人日本煙火協会専務理事を務めます。
武藤輝彦さんは、花火師の教育体制や事故に備えた保障制度などを整えました。
1988年にはグランドキャニオンで日本式打ち上げ花火の披露に成功し、花火に関する著書も出版しています。
私生活では、武藤輝彦さん夫婦は兄弟の中で最も三淵嘉子さんに近い存在でした。
三淵嘉子さんの夫の死後、武藤輝彦さんのもとに母子で身を寄せていたことがあります。
また、三淵嘉子さんは小学生だった息子を武藤輝彦さんに預け、仕事で渡米したこともありました。
三弟の武藤晟造
武藤晟造さんは北海道大学医学部を卒業しています。
卒業後は日産診療所に医師として勤務していました。
1971年から1984年まで、日産厚生会診療所の所長を務めています。
末弟の武藤泰夫
武藤家の末っ子として生まれた末弟の武藤康夫さん。
三淵嘉子さんとは14歳も離れています。
そのため三淵嘉子さんとの関係について、「姉というより、もう一人の母のようだった」と話しています。
武藤泰夫さんは東京大学農学部林学科を卒業し、林野庁職員として働きました。
退職後も森林保護活動に注力したそうです。
すごい家族だったんですね!
三淵嘉子に子孫について

三淵嘉子さんの直系の子孫はいないようです。
三淵嘉子さんは2度結婚をしました。
1人目の夫との間に、和田芳武(わだ よしたけ)さんが生まれています。
和田芳武さんには「昭子さん」という奥さんがいました。
しかし、和田芳武さんに子供がいるという記述は見つかりません。
2人目の夫とはどちらも連れ子がいる再婚同士です。
三淵嘉子さんと2人目の夫の間には実子はいません。
このことから、三淵嘉子さんの血を引く子孫はいないと考えられます。
最初の結婚
「泣きすぎて顔が紫色に」朝ドラのモデル三淵嘉子は戦争で夫を亡くした…終戦前後に出した「4つの葬式」 二番目の弟や明大の学生が語った三淵嘉子の地獄のような日々 #プレジデントオンライン https://t.co/PQ32sIfTai
— あさやまちゃん (@Asa_chatoraneko) May 30, 2024
1人目の夫・和田芳夫(わだ よしお)さんは、武藤貞雄さんの丸亀中学時代の親友の甥で、書生として武藤家に下宿していました。
働きながら明治大学夜間部で学び、卒業後は東洋モスリンに就職。
一方で、弁護士になった三淵嘉子さんには20代半ばを過ぎても良い縁談がなかったそうです。
いつまでも結婚する気配のない三淵嘉子さんに業を煮やした武藤貞雄さん。
ついに「誰か、いい人はいないのか」と聞いたそうです。
その時に「実は…」と恥ずかしそうに和田芳夫さんの名前を答えたことで、2人の関係が大きく進展しました。
1941年に三淵嘉子さんと和田芳夫さんは結婚。
池袋でアパートを借りて新婚生活をスタートさせました。
1943年1月には、息子の和田芳武さんが生まれます。
和田芳武さんが生まれてからは、武藤家で同居を始めました。
両親も初孫を可愛がり、毎日笑顔が絶えなかったそうです。
世間では男性たちが次々に戦地へ旅立つ中、体が弱かった和田芳夫さんは徴兵検査に合格できず、何度か招集を免れていました。
しかしいよいよ戦況が悪化した1945年1月、ついに和田芳夫さんにも招集命令が届きます。
戦地に向かった和田芳夫さんは、出征先の中国でもともと疑いのあった肋膜炎を発病し、終戦を迎えても入院したままでした。
1946年5月、中国からの引揚げ船の中で和田芳夫さんの病状は悪化し、長崎の陸軍病院で危篤状態に陥ります。
三淵嘉子さんが東京から長崎に駆け付けたときには、夫はすでに息を引き取ったあとでした。
実は和田芳夫さんの危篤連絡は、はじめ本籍地の四国に届けられたため、三淵嘉子さんが東京で連絡を受け取るまでにかなりの時間がかかったそうです。
このトラブルがなければ三淵嘉子さんは夫のそばに寄り添って、最期を看取ることができたのかもしれません。
幼い頃に父親を亡くして母子家庭で育った和田芳武さんは、常に忙しく働く母親に甘えられず、寂しい気持ちを抱えて育ったそうです。
その後、東京大学伝染病研究所・寄生虫研究部で佐々学教授に師事していました。
1974年から東京女子医科大学・寄生虫学教室で研究を続け、寄生虫研究者として生涯を捧げました。
しかも行き先は1月の極寒の中国…入院しに行ったようなものです
二度目の結婚
#虎に翼
佐田寅子と星航一。
2人のモデルとなった、三淵嘉子さんと三淵乾太郎さん。 pic.twitter.com/Fig3HWfd4H— Saitoh Masaya (@MS3110) July 26, 2024
1956年8月に再婚した2人目の夫は、裁判官の三淵乾太郎(みぶち けんたろう)さんです。
妻に先立たれたシングルファザーでした。
和田芳武さんが名古屋で暮らしていた頃を振り返り、家に時々「裁判所の男性」が遊びに来たことや、母親とこの男性の3人で名古屋動物園に行ったことを明かしています。
この「裁判所の男性」が三淵乾太郎さんなのかは明らかにされていませんが、2人の交際は名古屋で始まったようだと推測されています。
三淵嘉子さんが次に赴任した東京地裁では、出入口まで迎えに来た三淵乾太郎さんと帰宅していく様子がたびたび目撃されていました。
東京地裁の同僚たちが並んで帰宅する2人の様子を見て「あの2人は結婚が近い」と噂するほど親密な空気を漂わせていたそうです。
三淵乾太郎さんには死別した前妻との間に4人の子供がいましたが、長女の結婚を機に三淵嘉子さんと再婚しました。
お互いに子連れでの新生活とあって、13歳から21歳までの多感な子供たちは、三淵嘉子さんの独善的な正義感や身内に対する気性の荒い一面に猛反発したそうです。
三淵乾太郎さんの長男・力さんは当時の様子について、こう語っています。
「ひとことで言えば、猛女であった。(中略)昨日は仲むつまじかったと思うと、今日はもう言い争い、といった風な波乱が起き、我が家は平穏とはとても言い難い状態になった」
(『追想の人 三淵嘉子』への寄稿より)
三淵乾太郎さんの子供たちはその後も三淵嘉子さんを「父の連れ合い」という言い方をしていましたが、一緒に家族旅行にも行き、関係は良好だったようです。
三淵嘉子の経歴について

父親の教え通り自立した女性を目指し、法律を勉強しよう決意した三淵嘉子さん。
1932年4月、明治大学専門部女子部法科へ第4期生として入学しました。
明治大学は、当時女性に唯一法学の門を開いていた大学です。
翌年1933年5月の弁護士法改正によって、司法試験の受験資格が女性にも認められます。
三淵嘉子さんは1935年に明治大学法学部に編入し、1938年に卒業しました。
当時の学習の様子については「女性は女性だけで固まり、男性に勉強の場を借りているような状態だった」と話しています。
法学部に進学してからも、肩身は狭かったでしょうね
日本初の女性弁護士登場
1938年11月1日、司法省は3人の女性が高等文官試験司法科に合格したと発表しました。
他の2人も三淵嘉子さんの明治大学の同窓生です。
新聞でも「女性初の快挙」として大きく取り上げられました。
その後、1年半の実務実習を受けた三淵嘉子さんたちは、1940年6月に第二東京弁護士会に弁護士登録。
これにより、三淵嘉子さんたちは、晴れて日本初の女性弁護士となります。
三淵嘉子が裁判官になるまでの道のり
1947年3月、三淵嘉子さんは司法省に「裁判官採用願」を提出しました。
しかし、「女性裁判官を採用するのは、新しい最高裁を発足してからの方がいい」という理由で不採用になります。
不採用となった後、三淵嘉子さんは勉強のため、司法省民事部に所属。
1949年6月、日本で2人目の女性裁判官として採用されました。
1950年5月、アメリカの家庭裁判所制度の視察メンバーとして選ばれた三淵嘉子さん。
帰国後、人権を尊重した新しい民法と家庭裁判所の創設に尽力しました。
1952年12月、名古屋地裁で日本初の女性判事として赴任が決まり、小学4年生だった和田芳武さんを連れて引っ越します。
当時「女性判事着任」のニュースは、駅前の電光掲示板に流れるほど注目を浴びたそうです。
原爆裁判から晩年までの三淵嘉子
朝ドラ『虎に翼』主人公のモデル・三淵嘉子の後半生、渡米、再婚、原爆裁判を担当、女性初の判事、裁判所長に 『虎に翼』三淵嘉子の生涯・後編 | JBpress autograph https://t.co/1hUJyhzsG5
— 和桧 (@kazuhinoki) August 19, 2024
1955年から1963年にかけ、東京地裁で原爆裁判が行われました。
原爆裁判は、原爆被害者が国を相手に損害賠償を求めた裁判です。
最終的に損害賠償請求は棄却されました。
しかし、「アメリカの原爆投下は国際法違反」と判決を下し、国内外から高く評価されます。
東京原爆裁判が世論を動かし、1968年5月には原爆特別措置法が施行。
これにより、特別手当の給付や被爆者手帳の交付が開始されました。
1972年6月、三淵嘉子さんは新潟家裁所長に就任します。
女性が家裁所長を勤めるのは初めてのことでした。
三淵嘉子さんはその後も、浦和家裁と横浜家裁の所長を歴任。
1979年11月13日に定年退官します。
三淵嘉子さんは5,000件以上の少年犯罪に向き合い、「家庭裁判所の母」と呼ばれて、多くの人から慕われていました。
1983年、骨肉腫(骨がん)と診断された三淵嘉子さんは1年余り闘病生活を送ります。
しかし病状が悪化し、1984年5月28日に入院先の病院で家族に看取られて69歳で永眠。
「母の人生は、戦い続けた人生でした」と語った和田芳武さん。
三淵嘉子さんの穏やかな最期を看取り、「母の戦いは終わったんだ」と感じたそうです。
三淵嘉子さんの遺骨は本人の希望で、先夫の和田芳夫さんと現夫の三淵乾太郎さんお墓に分骨されました。
三淵嘉子がモデルの朝ドラについて
ドラマ『虎に翼』★★★★4.3点。 憲法、女性の社会進出、結婚離婚、人種差別、同性愛、その他ありとあらゆる社会問題が描かれていてとても… https://t.co/sufO1f8FPq #Filmarks #ドラマ
— NF (@Hrpny913Nf) January 6, 2025
NHKの朝ドラ「虎に翼」は三淵嘉子さんをモデルにしたドラマです。
全130話で、2024年4月1日から9月27日まで放送されていました。
主人公の佐田寅子(さだ ともこ)を演じるのは、伊藤沙莉(いとう さいり)さん。
昭和初期に佐田寅子が女性として初めて法律の世界に飛び込み、困難に立ち向かいます。
佐田寅子の奮闘と周囲の人間模様を描いた実話に基づくオリジナルストーリーです。
「虎に翼」は20〜30代前半の若い女性からの高い支持を得ていました。
SNS上では、今後の展開予想や法曹関係者からの投稿で盛り上がっていたようです。
まとめ
朝ドラ『虎に翼』主人公のモデル・三淵嘉子、日本初の女性弁護士の前半生「高価な花嫁切符」を捨て法律の道へ|『虎に翼』三淵嘉子の生涯・前編 https://t.co/qgxzG4FjaG
— JBpress autograph (@jbautograph) August 4, 2024
最後にこの記事をまとめました。
- 父はエリートで母は名家のお嬢様だった
- 三淵嘉子さんには弟が4人いる
- 1人目の夫との間に息子がひとりいる
- 2人目の夫との間には実子はいない
- 2人目の夫には前妻の子供が4人いた
- 直系の子孫はいない
- 三淵嘉子さんは日本初の女性弁護士のひとり
男女格差が大きい時代に白眼視されながらも、日本初の女性弁護士になった三淵嘉子さん。
裁判官になってからも悩める人たちに寄り添い、後進を育てることにも尽力し続けました。
そんな三淵嘉子さんの原点となったのは、「一人の人間として自立する」という父親の教えだったようです。
また、三淵嘉子さんのよき理解者でもあった家族の存在も大きかったのでしょう。
三淵嘉子さんの直系の子孫はいません。
しかし、三淵嘉子さんが大切にした「一人の人間として自立する」という教えは、彼女が教鞭を取り続けた明治大学女子学部の学生たちに引き継がれています。